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クッチャロ湖 (2024 #1)

動物園にはたまに出かける。動物園に行けば、本来ちょっとした遠出なんかでは見ることができないような世界各国の多種多彩な動物をその1箇所でほぼ確実に見ることができる。動物倫理の議論から目を背けその目を利便性だけに向けれるのであれば、それは動物好きな人にとってはかなり便利で魅力的な場所であると思う。でも、そんな動物園に行って動物の写真を撮っても満足はしない。そしてその理由はそんな利便性にある。ある動物の写真を撮るために、それが生息する場所を探しその場所の気候や特徴、アクセスの仕方、注意することを事前に調査し、その動物の写真を撮るのに最適な時期や時間を考慮の上計画をたて、実際にその場所に行き、せっかく色々調べたのに調べきれてなくてなんだか色々失敗しつつなんとかその動物を発見しその動物を撮るのに良さそうなスポットを探しそこに移動し露出を決めファインダーを覗きでもなんだか煮え切らない感じで露出を変えたくなって色々いじっているうちに動物が視界から消えてガッカリしてしゃがみ込んでタバコを吸っているとまた現れて胸の高まりとともに再びファインダを覗き今度こそシャッターをきる。この一連の流れがあってこそ始めて充足するのだ。私にとって動物を探してその現地に行きその上で写真を撮ること、つまり旅行と写真とは同一の目的の元にとっている連続した行動であり不可分である。哲学者ソシュールによれば、名前とは人間が物事を整理するために連続した自然をあえて分断し記号化したものであるということだ。つまり、旅行と撮影は私にとっては連続しているのに、先に生まれた誰かが分断して記号化したのだ。甚だ迷惑な話である。仕方がないので、分断された旅行と撮影を再結合し、記号化をやり直すことを行いたいと思う。今度。

そのようなことは特に考えず、今年の最初の旅は北海道北部にあるクッチャロ湖を行き先とした。ハクチョウやカモ類の渡りの中継地で日本で3番目のラムサール条約指定湿地となる汽水湖だ。本来この季節にはハクチョウなどは本州の方に渡ってしまっているが、クッチャロ湖には凍結しない場所があり、そこで越冬しているハクチョウ・カモ類がいるとのことを知り出かけてみた。雪の中の鳥を撮影したかったからだ。しかし、この旅はなかなか大変だった。運転だ。北海道の雪道の運転は経験があったけど、ここは別物だった。道路に雪が完全に残っている状態での運転が初めてだったからかもしれない。アイスバーンと化した道路を轍を探しながら走る。轍から外れてシャーベット状の場所に突っ込むと滑る。カーブの前にスピードをしっかり落としていないと滑る。減速は早めに時間をかけて行わないと滑る。滑る滑る。もはやマリオカートである。そんな中、横から地元の方と思われる車がなんとか法定速度上限で走っている私をあっさり抜いていく。そんな比較により、自分の運転の技量を知る。

宿泊していたのは稚内市街で、クッチャロ湖までは1.5時間 (Google Naviによる)という距離感。上記のような状態なので、実際はもう少し時間がかかる。緊張感を維持しながら運転を続け、轍の発見と丁寧なアクセル・ハンドル操作に意識を集中し、いよいよ疲れがピークに差し掛かったところでクッチャロ湖に到着する。湖が全面凍結しているため、その凍結した湖の上に雪が均等に積もっていて広大な雪原を形成している。遠くに森、さらに奥には霞んだ山が見えるが、それ以外は一面雪のフィールドが視界全体に広がる。先ほどの緊張が一気に解かれていくのが感じられる。ハクチョウとカモの越冬組一団はそんな凍結湖の一角にある凍結していない場所に集まっている。その一団から離れたところにいるハクチョウ親子も確認できた。ハクチョウはいつも通り座り込んだり水の上に浮かびながらのんびり過ごしたり、急に興奮し出して一斉に騒ぎ出したり、色々なところで見るいつもの営みをいつものように行なっていた。

途中で運転が嫌になるタイミングが何度かあったが、やはり旅行から帰って写真を現像しているといつもに増して旅行の記憶が強く蘇ることに気づく。結局写真を撮ることと旅行は繋がっていて、被写体にたどり着くまでの道のりの長さや困難さが記憶の深さを決定している要因なのだろうという結論になる。

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